2016年9月27日火曜日

8.何とかしなくちゃ

しかし成り行きとは言えこんなに普通にしていていいのか、と釈然としない思いに駆られる。僕は今夜9時に死ぬことになってる。他にすることはないんだろうか。田舎に帰って一目母に会おうか。しかし会ったところで母も同時に死ぬことになる。死ぬというか、世界が全部無くなるわけだから、普通に死ぬ時みたいにやり残すことや言い残すことなどの未練は基本的には存在しないのだろう。

最後の晩餐はどうだ。一番好きなものを最後に食べるってのは。僕が一番好きな食いものはなんだ。そりゃつけ麺だな。昇龍軒の魚介濃厚つけ麺。つけ汁が太麺に絡んで最高に美味いんだよな。ぶっといシナチクや厚めのチャーシューも絶品。
由香と行くか。いや、由香はイタリアンが好きだ。アルイタリアンテのディナーコースが良いって言うんじゃないかな。しかし、しかしだ。食べた後すぐに死ぬってどうだ。食べてすぐ寝ると牛になるって言うけど、食べてすぐ死ぬとどうなるんだ。しかも普通に死ぬんじゃなくて惑星の衝突で死ぬんだから、一瞬で焼き尽くされる感じか。んー、何だか食欲なくなってきたな。焼かれる直前に食べるのもな・・・。

プレゼン資料にハモりの練習、最後の晩餐などなど、考えれば考えるほど混乱してくる。何だかとても追い詰められた気持ちだ。でも由香と約束した以上ともかく7時には八重洲のコーラスに行かなくてはならない。となれば、ギリギリダッシュで6時50分には会社を出なくちゃ。おー、これはただごとではないぞ。僕は慌てて席に舞い戻り資料のダウンロードの続きを再開した。

僕と絵里子以外の6人は自分の仕事を終えており、割とのんびりムード。デザイナーの原田はコーヒーとかを飲みながら雑談している。
「今日は早めに失礼して家でゆっくりその時を迎えようかな。息子もまだ3歳だからパパ、パパってまとわりついてくる年頃だしね」
原田は2こ先輩だが、4年前に結婚して男の子がいた。
「そうよね。昨日は夜中まで頑張ったんだから後は小西くんと絵里ちゃんに任せて私たちは早めに上がらせてもらおうかな」
コピーライターのさつきさんも余裕の表情。益々焦る僕。確かに分業態勢なので他のメンバーにできることはない。全体をまとめて資料を完成させるのは僕と絵里子の仕事だ。でも何だか釈然としない。こんな大事な時に何で僕だけこんなにテンパっているのか。
「ねぇ、小西さん、お願いしますよ。私だって今日は早めに上がりたいんです。彼氏からメール来てるし」
絵里子が縋るような目で僕を見る。絵里子も今日は化粧ばっちりで勝負服的なワンピースを着ていた。最後に彼氏に会いたい気持ちは痛いほどよくわかる。何とかせねば、と強く思う。
「わかった、わかりました。何とかするからさ。共有ドライブのデータ今落としてるから。あとレイアウトしてスクリプト作ればいいんで、夕方までには何とか終わらせるよ。ラフのレイアウト作っておいてもらいたいんだけど」
「わかりました。小西さんはスクリプトに集中してください」
気合いのこもった目で僕をまっすぐに見つめる絵里子。僕にも自然に気合いが入る。絵里子と話したら何だか出来そうな気になって来た。グラフィックもコピーも完成度に問題はない。問題は課長のちゃぶ台返しだな。熱血桑田課長はたまに全部やり直し!的なちゃぶ台返しをかますことがある。しかしまさか今日はそんなことはしないだろう。どうせ通るはずのないプレゼンの資料なんだから、完璧を求めるということもないはずだ。基礎資料を整理しているうちにあっという間に昼になった。
村上が寄って来て、
「昼行くぞ」と言った。後ろに黒田もいる。いつもの同期三人組。昼休み潰して作業した方がいいかな、と一瞬思う。でも何とか大丈夫そうだな。まいっか、と絵里子に、昼行って来る、と声をかけて立ち上がった。
「大丈夫ですか?そんなのんびりしてて」
不安そうな棘のある声で絵里子が言う。
「大丈夫だよ。任せといて」
小声で言ってドアに向かった。



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主な登場人物
小西博志:主人公。広告代理店勤務のサラリーマン。
桜井由香:博志の彼女。商社勤務。
桑田課長:博志の上司。あだ名は瞬間湯沸かし器。
村上:博志の同僚。同期。
黒田:博志の同僚。同期。
小杉絵里子:博志の同僚。ペアを組んでいる。