2016年10月7日金曜日

16.最期の時

 課長は老眼鏡を外し、目を細め険しい表情で僕を見つめている。課長の席の前に立ち資料を差し出す。
「課長、出来ました。僕のサラリーマン人生で最高のプレゼン資料です。チェックお願いします」
桑田課長は重々しく頷くと老眼鏡をかけなおし資料を捲る。既に一回元原稿によるプレゼンは済んでいるので、スムーズにページが進んで行く。射るような視線でチェックをする桑田課長。
やがてページを捲る手が止まり、ふぅーと静かに息を吐いて桑田課長は立ち上がり、老眼鏡を外し正面から僕を見つめてこう言った。
「小西、よくやった。最高だ。お前は日本橋広告社の魂を受け継いだ立派な営業マンになった。本当にありがとう」
右手を差し出す桑田課長。僕も応じて机越しに右手を伸ばしたが、涙が止めどなく溢れ目が霞んでよく見えない。
僕は何も考えずに目標に向かうことの素晴らしさを初めて理解した。そしてそれはきっと課長が一番僕に伝えたかったことなのだろう。課長の手を探し当て僕は強く握り締めた。
「課長・・・有難うございました。よく分かりました。課長の気持ちが・・・初めて・・・。でも、もう遅いですよね・・・」
嗚咽が言葉を途切れさせた。最後の最後にわかってももう遅いんだ。僕は声をたてて泣きじゃくった。課長は握っていた手をそっと放し、机を離れ僕の横に寄り添うと、そっと僕の右肩を抱くように右手を乗せた。
「小西、この地球上から人類が全部いなくなる、ってことの意味がわかるか?」
 急にそんなことを言われ戸惑う僕は首を振る。
「ホモサピエンスは40万年ほど前に出現したと言われている。ここまで来るのに40万年かかってるんだ。お前がこの最高のプレゼン資料を作るまでに40万年かかってるってことだぞ。そしてそれが今日でゼロクリアになる。しかし誰が知っていようがいまいが、証拠があろうがなかろうが、この40万年の最後の仕事は誰かがやらなきゃならん。私はそれをお前に託した。人類が全部いなくなりゃ、また始めからやり直しだ。生物の始めからやり直すとしたら40万年どころじゃない。1億年かかるらしい。でもな福田、40万年後だろうが、1億年後だろうがいつかきっと誰かがまたこんな資料を作る日が来るんだ」
桑田課長の言葉は静かに僕の中に沁み込んで来た。人類最後のプレゼン資料を作る役割を担えたとしたら、僕が生きた32年も無駄ではなかったのだろう。ホモサピエンスの誇り、そんな言葉が浮かんだ。
「行ってやれ。彼女が待ってるんだろ」
え?言われて思い出す。そうだ。由香だ。由香が待ってたんだ!時計を見ると8時55分!あと5分しかない!でもともかく、ともかく行かなくちゃ!僕は席にダッシュし、カバンを引っ手繰るように抱えドアへ向かおうとした。

 その時左目の端に、窓の外に白い光が見えた気がして思わず振り返る。
 窓に背を向けて腕組みする桑田課長の背後に炸裂した小さな光の点が一瞬で大きく広がり、光の渦となってめちゃくちゃに僕を飲み込んで・・・。あ!・・・。

※小説主題歌「地球最期の日」はこちら(音声のみです)

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主な登場人物
小西博志:主人公。広告代理店勤務のサラリーマン。
桜井由香:博志の彼女。商社勤務。
桑田課長:博志の上司。あだ名は瞬間湯沸かし器。
村上:博志の同僚。同期。
黒田:博志の同僚。同期。
小杉絵里子:博志の同僚。ペアを組んでいる。